昭和43年4月19日 夜の御理解

                          中村良一

 教祖様は、信心させて頂く者に、信心の、本当の有難さと言うものを分からせたいと願われる。信心の有難さと言うものは、なるほど、神様のおかげ、御神徳の中に生かされておるという、喜びを分からせて下さる。その神様の御守護を、こんな風にして、受けておるんだという事を分からせようとなさる。それを、言葉ではなくて、心の中から分からせようとなさる。その事が、我情我欲を離れてと、こう仰る。我情我欲を離れないと、本当に、わが身は、神徳の中に生かされておるという事が分かりません。
今日は、二日市の教会で、筑水連合会の先生方と、それから、信徒の代表の話し合いがございました。今日は、若先生と秋永先生が、お出でられたんですけれども。本当にあの、自分の身欲というか、我欲と言うものを捨てて、自分の思いを捨てて、今日は、おかげを頂いておられるんですけれども。なるほどあの、神様に使われておるんだなぁという事を感じると、こう言うておられます。私達が、日々、神様に使われておるという実感。自分が、動いておる、自分が働いておるというのじゃなくて、神様の、もう御神意のまにまに、こちらが動かして頂いておる。神様の、いわゆる、お徳の中にあるなという事を、実感させて頂く生活が、私は、信心生活だとこう思うのですね。そのため、やはりその、本気で一つ、我情我欲を離していくけいこをしなければいけません。一日働きゃ、幾ら方なる。お参りすりゃ、お賽銭も要る、お初穂も要る。そういう様なものがですね、あってはおかげにならん。
まぁ、いろいろな話のついでに、合楽の、もう合楽の話が、何時もその、出される。もうそれは、秋永先生に言わせると、本当に、こんなつまらん事が問題になっておるという事が、まぁ問題になってるらしいですけれども。合楽の話は、少しするとね、分かる人は、みんな分かる。特にあの、信徒会長、筑水連合会の会長である、平田さんが、ここへ、時々、あぁして見えるようになって、もう、合楽の信心に、傾倒してしまっておられるという事。最近はもう、どこへ行っても合楽の話。合楽の親先生は、こげん仰るよ。今日もそれが、盛んに出たそうです。合楽の先生が言わっしゃる。私は、この頃は、あちらで頂いて、真の信心には、真の修行が要るという事を頂いて。私流に、教えが五十ぐらい出来た、その一言から。と言って、話されたそうです。ですからもう、本当に、真の信心には、真の修行が要るという、その真の修行を、合楽のみなさんが、誰でもさせて頂かなければならんし、また、その事ばかりを、ここでは、話しておる訳なんですね。
昨夜の、月次祭の後のお説教を頂かれた方は、これを、良く分かられるですね。例えば、どのように、難儀な問題が起こって来ても、どういう情けない、歯痒い、腹の立つ問題が起きてきても、その問題、そのものはです。相手が腹かいとるからというて、こっちも腹かいたら馬鹿らしかという事ですね。しかも、それは、神様から、言わせるとです。その腹の立つとか、情けないとか、難儀に感じる、その事こそが、宝だとこう仰る。宝様だ。しかもその、宝様を、踏みつける様な事をすると、目が潰れると仰る。目が潰れる、心の目が潰れるという事です。だから、本当の事が、全然分からなくなってくる。おかげでも、おかげと分からなくなってくる。その宝を大事にするから、いわば、さっき申しましたようにね。聖徳太子が、ずーっと続いて入って来なさる。お互いが、どの位、その宝様を踏みにじっているか分からない。そのために、目は、いよいよ、薄うなったり、つぶれたりして、心が真っ暗になって、それが難儀に見えてくる。腹の立たん問題でも、腹が立ってっくる。昨日、それを、私、私共の長女の豊美が、典楽会に入っております。典楽会で、もう、それこそ、誰が聞いても、かーっとする様な事を言われて、帰って来ておったですけれども。その事を、夕べの御理解に頂きましたですね。
先ほど、現在の親教会から電話がかかって来た、豊美に。そして、その昨日の問題は、ここであの、舞の問題でしたけれども。善導寺では、よその楽員さん方を呼ぶ。そして、大きな二人で舞わして貰う、新曲の舞いを舞うという事になっておった。だから、豊美さんな、あんたもう、稽古には来んでん良か、かたらんでん良かち言う様な事じゃった。ところが、さっき、電話がかかって来てですね。ここで舞った、(せいゆう)と言う、あれも、大変いい舞いです。もう、舞の中では、まぁ、垢抜けした舞いなんですよね。また、大きな舞でもあります。あの舞を、今度は、善導寺の御大祭にも舞う事になったから。豊美さんが、いわゆる、琴の方も、この習うちゃる、舞の方も習うちゃるから、教えて欲しいという電話じゃった。だから、ほうら見れと言うのじゃなくて、おかげ頂いて良かったと思うのです。宝様を大事にしとるから、そういう事になってくるのですよ。もう、急転直下、おかげというものがです、変わってくるんです。昨日までは、いうなら、もう、けんもほろろ。それこそ、満座の中で、恥をかく様な事であったんですけれども。ほんなら、その今度は、合楽にですよ。その舞を教えてくれ、その琴のじを教えてくれと言う事になって来てるのです。はぁ、良かどこじゃありません。もちろん、豊美も、昨日、ご理解頂いて、すっきりしておりますから。おかげ頂くどころじゃございませんと言う事になる。私も聞いて、おかげ頂いて良かったなぁと、こう思うのです。おかげと言うのは、そんなに、はっきりしているもんなんですよ。
昨日、どうでしょう、その問題を、難儀な問題、腹の立つ問題としてから、向こうが向うなら、こっちもこっちと言うて、腹かいておったら、どういう結果になって来ておったでしょう。それこそ、こちらは目は潰れる。もう双方が、立ち行かんようになるのです。そこを、いわば、宝様として頂いておる。そこに、今日は、こういう、早速、もうとにかく、嘘のような話でしょうが。今まで、かって無い事ですよ。合楽に琴を習いに行くとか、舞を習われるなんていう事は、もう、かって無い事なんですよ。それが、向こうから電話がかかって来て、さぁ、これからというものは、まぁだ、どげんなるか、分からんよと、私が言うたです。けども、そん時には、もうそれこそ、どうでも良いという気持ちになれよ。せっかく、教えてくれとるけん、こっちは、はずうどるところへ、また要らんち、ひょっとして、言われるかも分からん。そげん時でも、はぁそうですかと言うて、引きさがりゃ良いのだと。それが信心なんだ。もう信心ちゃ、こんなに自由自在なね、おかげが受けられると同時に、為には、自分の心を、自由自在に、有難い方へ有難い方へと、使うて行く稽古なんだ。いわゆる、我情我欲を離れて行くというのは、その事なんだ。自分の思いを捨てて、いや、自由自在な心が使われる状態に、何時もあるという事。向こうが腹かいとるからというて、こっちも腹かくちゃ、そげん馬鹿らしい事はなかよという気持ち。そして、それを宝様として、大事にさせて頂くという事。そこには、それは、宝様としての働き、そういう事が発揮されてくる。もう、早速、翌日には、こういうおかげを頂く事になっておるのですよ。そのような話ですけれども、合楽で頂いておるおかげは、みんな、嘘のような話なんです。合楽のおかげを、普通の、よそのご信者様方に言うても、ほんなこっじゃるかと、こう言うのです。
最近の、合楽のゴヒレイを、今日、秋永先生が話された。もう、それこそもう、びっくりしてしまってですね。今度の御大祭には、ちょうど、お届けが、千四十六名ですか、あっています。その話をされたら、それこそ、びっくりしてしまった。そういうですね。本当と思われない、そこには、善導寺のご信者さん方も、あちらに行っておられますからですね。実証する人達がある訳なんです。ただ、秋永先生だけが言うなら、はぁ、うだこつ言いよるじゃろうとしか聞こえんのです。けれども、本当に、うーだこつじゃなかじゃろうかと言うごたる、おかげになってくる、白ごつじゃないじゃろうかと言うように、おかげになってくる。問題は、そこん所の、スキッとした、いわゆる、我情我欲を離れたところに、なるほど、わが身は、神徳の中に生かされておるんだなぁと言う、おかげが、これに実感できる。何と、天地の親神様の御神徳の中に、私共は、生かされておるんだなと。だから、神様にお使い回しを頂いておるんだなぁ。だから、どんなに忙しい思いをさせて頂いても。今日も御用に、忙しければ忙しいほど、きつかったら、きつかったほど、それだけ、御用に使うて頂いたのであるから、それだけ有難い。その中には、いうならば、もう本当に、腹の中が煮え来るような、腹の立つような問題もあるかも知れんけれども。それこそが、宝様だと分からせて頂いて、それを大事にしていく。向こうが腹かいてるから、こっちまで、腹かかにゃ損すると言った様な事では、信心しとる値打ちはない。もうあくる日は、早速、宝様にも似たようなおかげに、展開してきておる、変わって来ておる。何という有難い事だろうかと、私は思う。そこに、わが身は、神徳の中に生かされてある。神様の思いの中に、私共が、神様の、こういう御守護の中にあるんだなぁという、喜びに浸って生活をするという事が、人間の一番の幸せじゃないでしょうかね。どうぞ。